2021年2月20日 22:07
義経は、どうすれば、
「走狗煮られる」とならなかったのか??
兄であり、上司である頼朝が、
頭にデザインしていた「武士の世」を理解していれば、
そうならなかった可能性が高い。
頼朝から見れば、
「武士の世」の実現を邪魔する「天皇・公家=京都勢力」に、
義経が、取り込まれたように見られたのである。
学ぶべき点は、数多い。
「絶対に、やってはならないこと」
どんなときも、上司のこれを知って、仕事をしなければならないのである。
義経は、上司である頼朝の「絶対、それはやるな!」を、
知らずに悪意なく、やってしまったのである。
あと、もうひとつ。。
「家」の歴史や特長は、脈々と受け継がれ、繰り返される。
ということは、知っておいて、気をつけて、生きるべし。
どんな家でも同じ。父方・母方、よく知るべし。
以前のブログにも記したが、
源氏は、武力に秀でるが、身内同士で、殺すまで争う。そうゆう家である。
平家は、天皇家と近く、金儲けが上手い、身内同士が仲良い家である。
そして、「走狗煮らる」という、
故事成語も、、義経は鞍馬の寺で、学んでいたのだろうか?
2021年2月14日 21:38
関西の人は、義経びいきで、
関東の人は、頼朝びいき。
就職してから、東日本の方と知り合うことが多くなり、
関東の人は「頼朝・支持派」が大多数であることに、驚いた。
関西では「悪者」である・笑。(あ、、東北でも「悪者」である)
義経は、京都から身を起こした、スター。
西日本を中心に、大活躍する。
平家を滅ぼした後、
最後、兄・頼朝に追われ、殺される。
「走狗、煮らる」のことわざの通りである。
正式には、
狡兎(こうと)死して、走狗(そうく)烹(に)らる。
中国の歴史書「史記」に出てくる故事成語である。
獲物のすばしっこいウサギがいなくなったら、
猟犬は、用がなくなって、煮られて、食べられる。
敵を滅ぼすために、功のあった家臣も、
敵がいなくなった後は、邪魔になって、殺される。
漢の時代・劉邦に仕えた軍事の天才・韓信もそうであった。
こちら、義経のカノジョ・静御前の生誕地と言われる場所。
ひなびた海の見える田舎にある。だーーーれも、来ない。

近くには、小さな集落があり、
岬のギリギリに「開墾」された畑と作業小屋がある。
(これって、昔で言うところの隠し田だよな~)なんて、思いながら、
ぼーーっと、眺める。

人の生活が、自然の風景の中に溶け込んで、一緒に見える場所。。
これが、私にとっての「絶景」です。
2021年2月13日 22:00
神戸空港からの出張のとき、
この風景を目にしながら、クライアント先に向かいます。

眼下に広がるのは、源平合戦の古戦場・一の谷。
兵庫県神戸市の西の端。
昨日のブログ「鎌倉武士」が活躍した時代です。
この山の麓と海の間に築かれた平家の大要塞を
源義経が、山上から「逆落とし」の奇襲攻撃をかけて、
勝利を収めます。
(気づかれないように、山の向こう側から、兵を進めて・・・)
(あのあたりから、駆け下りたのかなーー)
(良い場所に、要塞を作ったなあ。だからこそ、油断もできるんだろうなー)
(俺が、平家なら、どう守っただろう・・・)
などと、思いを馳せながら、飛び立ちます。
こうして、
上から見ると、よくわかります。
2021年2月6日 22:30
法律や契約に反さなくても、
やってはいけないことがある。
1億円積まれても、やらないこともある。
逆に、
ルールに反していても、やることがある。
損をしてでも、やること。がある。
所詮、
法律もお金も、人が作ったものである。
それを超えたところに、根本的な判断基準がある。
人の根本的な部分である。
船井幸雄会長は、それを
「良心に従って行動する」と言っていた。
私は、
自分のやっていることが、
恥ずかしいことではないか?
筋が通っているか?
その行動や発言を、
あとで、自分の家族、子供が知ったとして、恥ずかしくないか?
自分が同じことをされたら、どう感じるか?を基準にしている。
自分が一時的に、いい思いをしても、
必ず、倍になって、返ってくる。
自分の代で、うまく誤魔化せたとしたら、
子の代、孫の代で、そのツケを払うことになる。
かといって、
決して、聖人君子的な人間ではない。。
でも、Not a Goodman, but a Fineman 的ではあるはずだ。
赤い色の中の文字は「CANCEL 欠航」の文字。

緊急事態宣言下、誰もいなくなった空港を歩きながら・・・
ふーーと、なぜか、そんなことを考える。

「名こそ、惜しけれ」
武装農民を起源とする鎌倉武士=日本人たる所以の精神である。
そうゆうことも、大切にしてきたから、
こんな状況の中でも、ありがたいことに、仕事があるのだ。。と思いを新たにする。
2021年2月4日 22:25
ボクシング好きとなるきっかけは、
中学生のころ、お留守番中、
偶然「浜田剛史」の試合を観たことだった。
(・・・・これは、以前のブログにも書いているので、ご参照ください)
そのあと、中西少年、中学3年生のとき、
井岡弘樹が、当時、世界最速・18歳で、世界チャンピオンになる。
その井岡のトレーナーが、エディタウンゼントさんである。
18歳のチャンピオンと、外国人のお爺さんトレーナー。
世界を獲った後、井岡の初防衛戦。
エディさんは、病気にもかかわらず、車椅子で会場へ向かうも、
体調が急変し、病院へ運ばれる。
井岡は、そのことを知らないまま戦い、12回TKOで、なんとか初防衛に成功。
エディさんは、勝利の報告を受けたその夜、天国へ旅立つ。
まるで、映画のような現実に、心を熱くした。

数多くの日本人ボクサーを育てたエディさんの名言をご紹介。
「チャンピオンになれるか、なれないか。それは、ほんのちょっとの差」
人が練習を止めた時、もう少しだけ練習した奴、
苦しくて負けそうになった時、もう少しだけ頑張った奴だけが
チャンピオンになれる。
「負けたときが大事なの。勝ったときはいいの。
世界チャンピオンになったら、みんな喜んでリングに上がりますね。
でもボクならない。一番最後にリングに上がるの。
よかったね、おめでとう、というだけよ。
夜、ドンチャン騒ぎありますね。でもボク騒がない。
ナイスファイト、また明日ね、といって帰るの。
でも、負けたときは最後までいます。病院にも行くの。
ずっと一緒よ。それがトレーナーなの。わかります?」
選手を、愛情あふれる厳しさで、励まし育む人だった。