2021年1月2日 21:16
新年、あけまして、おめでとうございます。
本年も、よろしくお願いたします。
昨年は、未曾有の危機が全世界を席巻しました。
このようなときこそ、
コンサルタントの本領・真価を発揮するとき!と、
これまで以上に、クライアント様のために、できる限りの動きをしてきました。
その結果、クリーニング業界においての
2021年の平均累計数字が、マイナス25%であるのに対して、
マイナス10%程度~昨対キープの成績持ちこたえていただき、
利益も残していただいてるクライアント様が、多数存在しています。
これは、私の大きな自信と励みになりました。本当に、感謝しかありません。
一方で、残念ながら、
業界平均値に、ややプラス程度の実績しか残せなかったクライアント様も、存在しています。
もちろん、商圏状況や、売上構造、ご契約からの経過年数にも、よりますが、
大きな違いは
「実施すべき施策を、現場でどれほど濃く実施していただいているか?」ということにありそうです。
コロナ渦中で勝ち残るためにも、
コロナ明けの反転攻勢に向けても、
さらにレベルアップしたご提案を行いますので、本年もよろしくお願いいたします。
・・・・

三菱UFJ銀行の頭取が、リアル半沢氏になったことですし・・・
恩返しと、倍返しで、臨みたいと思います。
2020年12月19日 21:24
江夏投手の系譜。。
15年前、こんな本を買っていた。

取捨選択され、定数を維持されている、私の本棚に、まだ残っている。
ということは・・・
気になっている本で、
いつか、読み返そうとしているのである。
表紙には、
若かりし、江夏投手が、王選手から、
シーズン354個目の三振を奪い、日本最多記録を達成した瞬間の写真。
日本記録は「王から獲る」と公言していたそうである。
王に対して、毎回、力の直球勝負を挑んだため、
王から最も多く三振を奪った投手は江夏(57個)だが、
江夏から最も多く本塁打を放った打者も王(20本)である。
そして、無頼派。。として、
魅力的な野球選手の名前が、書き連ねられている。
「無頼」という言葉には、
定職につかないならず者。ごろつき。という意味がある。
一方で、戦後の文学界で、派閥に属さず、
人間臭さを作風とする文豪たち(太宰治、坂口安吾、織田作之助、石川淳)を
「無頼派」と呼ぶ。
その漢字が示す通り、「頼らず生きる」という意味がある。
組織や体制に、頼って生きるのではなく、
自力で実践的な工夫を凝らし、道を切り拓いてゆく、
自主自立の精神を示す言葉である。
私は、その「業」に対して、
真摯で、素直で、一途で、貪欲なプライドを持った「無頼派」を、
このうえなく愛している。
ちなみに・・・
アリス再結成時の曲「BURAI」は、お気に入りの1曲である。
ちなみに・・・
無頼派は、総理大臣とステーキ会食は、できない。
グレートな無頼派を目指そう!
2020年12月13日 21:34
昨日のブログの続き。
美しい三振を奪った側・江夏投手について・・・
大阪学院高校から、阪神に入団し、1年目から剛腕投手として、
巨人の王・長嶋に立ち向かい、
故障後は、投球術をもってリリーフに転向。
あの「江夏の21球」の他にも「オールスター9人連続三振」など、数々の伝説を持つ。
中西少年の記憶にあるのは、
我が近鉄バファローズの前に立ちはだかる、広島時代の江夏。
その後、すぐにパリーグにやってきた日本ハム時代の江夏である。
なんとも、とにかく憎たらしい存在であった。
球速は速くないはずなのに、、
なんだか、上から見下ろして投げて、抑えてしまうのだ。

※この時点で30歳である。。恐ろしいまでの風格が漂う・笑。
現役時代は、首脳陣やマスコミとの確執を取りざたされ、、
一匹狼と表現されたり、豪快で、太々しく描かれることが多い。
現役引退後は、覚せい剤使用、逮捕歴もある。
そうゆう不祥事があったから、
球団に首脳陣として、招かれることはない。
全国ネットのTV解説にも出ない(出してもらえない?)。
が、大阪ローカルの野球中継では、解説をしている。
解説は、とても、面白い。
論理的に、本質をズバズバ言ってくれる。
そして、
江夏さんは、解説のとき、どんな選手を呼ぶときも「○○君」と呼ぶのである。
聞いているイメージとは、全く異なる性格が垣間見える。
最近では、先日のブログの桑田さんも、解説のとき、選手を君付けにする。
ずいぶん以前、誰かのエッセイを読んだことがある。
いわゆる「コワモテ系のスポーツ選手」の発言を、
スポーツ新聞や週刊誌などマスコミは、
勝手に「ワシ」と、文章にすることが多い。
「この場面、ワシは、三振を狙ってアウトをとることしか頭になかった」とか
「ワシには、アイツの気持ちが、痛いほどわかるんや」とか。。
江夏豊は、その代表格である。
(最近では、、やはり、清原か・・・)
しかし、江夏さんは、自分のことを、ワシと呼ぶのだろうか??
投球や野球への姿勢を見る限り、そうゆう人物には、見えないし、
取材や文章でも、ワシを聞いたことはない。。という主旨のエッセイであった。
※
本当に一人称を「ワシ」と使っているのは、
以前のブログにも登場した、川藤さんくらいのものだ・笑
ここからは、私の想像の域。。
江夏さんは、野球に対して、真摯で、一途で、素直なんだろう。
鈴木啓示、藤本義一監督、村山実、王貞治、野村克也、衣笠幸夫、大野豊。。
一流選手との出会いによって、どんどん成長を見せる。
36歳で、単身アメリカに渡り、
メジャーリーグに挑戦するが、マイナー止まり。
そして、そのまま、引退する。
2020年12月6日 21:20
木内監督への追悼番組で、
1984年の夏、
取手二高に敗れたPL学園・桑田投手(桑田真澄さん)のコメントが流れていました。
取手二高の選手たちは、
三振したのに、なんで歯を見せて、笑って、許されるんだ??
グラウンドで、笑うなんて、PLの野球の常識では、許されなかった。。
そうゆう野球に衝撃を受けました。と。
実は、
この話には、
あまり知られていない裏話がある。
書き留めておきたい。
高校2年生の桑田投手は、決勝戦で、取手二高と対戦し、敗北する。
三振しても笑って、ベンチに帰る。
外野フライを打っただけで、大騒ぎで喜んでいる。
そんな野球に負けたことが、不思議でたまらず、
その年の秋、
PL学園の寮を抜け出して、
取手二高へ行ったのである。冒険心、好奇心もあっただろう。
PLでは密かに大騒ぎになったそうである。
茨城で、学校を見て、練習を見て、
選手の家に泊まり、親交を深める。
桑田は、振り返る。
「同じ山の頂点を目指すのにも、
色んなアプローチの方法があることを知った」と。
高校二年生にして、
この行動力と大胆さである。
後のプロ野球での活躍も、うなずける。
故・野村克也監督は、
以前、桑田投手をこう評していた。
「この人は、どこを切ってもプロ。プロ中のプロ」と。
ちなみに・・・桑田投手が、
1984年、夏の甲子園で決勝ホームランを打たれたこの写真。。

私は、投手が打たれた写真のなかで、
もっとも印象に残る、美しい1枚だ。。と思っている。
2020年12月5日 22:19
注目したきっかけは、
ほんの些細なことであった。
「この監督、オッチャン(=父の兄)に、似ている」
少年のころの夏休み、
高校野球中継を見ていたとき、ふと、そう思って、口にした。
親戚一同、納得してくれた・笑
それが、その年、
桑田・清原のPL学園を破り、優勝した取手二高、
翌年から常総学院の監督となる、木内幸男監督であった。
小学生のときに所属していたソフトボールチームの
ブルーのユニホームの高校が好きだった。
「横浜商業」や「岡山南」その系統のブルーのユニホームの
「取手二高」の監督でもあるから、愛着がわいた。

言うに及ばぬ「木内マジック」とスマイル&親しみある茨木弁。
(もちろん、それは甲子園の試合での話。練習では、怒号と罵倒の嵐である)
常人では、思いもつかない奇策を「根拠のもと」実行する。
・好投手相手に、バント作戦なしの強振策で、点をとる。
・先発メンバーの大半を、レギュラー選手でなく、控え選手に入れ替える。
・この回の攻撃は、三者凡退でいい、すぐに終わらせろ。という謎の指示。。。
「指揮官にとって最も必要なことは、部下を知ること。
全国で一番長くグラウンドにいるのは、オレだと思ってやってきた」
そこにマジックの根拠がある。
そして、
監督を引退する会見のときの言葉と表情を、
今でも覚えている。
確か、、「どうしてここまで続けることができたのですか?」という記者の質問に、
「子供が好き、野球が好き、、(ひと呼吸おいて)勝つことが好き(ニヤリ)」
と答えていました。
自分に重ね、共感する。
「クライアントが好き、コンサルティングが好き、、・・・勝つことが好き(ニヤリ)」
この3つが、大好き。であるがゆえ、
考え抜いた末「マジック」が生まれる。
甲子園通算22回出場、40勝19敗、全国優勝3回。
名監督のご冥福をお祈りします。
皆さんは、
「スタッフが好き、クリーニングが好き、、・・・勝つことが好き」ですか??