2022年9月17日 21:03
歴史を知らない人は「今の自分の気持ちと常識」で、行動を決定する。
そして、間違う。
先日のブログに書きました。
現在、世を騒がす安倍元首相の「国葬」についても、
歴史を勉強すれば、何が問題なのか?
どうすれば良かったのか?
反面教師として、この騒動自体が勉強になる。
まずは、日本における国葬の歴史を調べてみよう。
総理経験者として、前例となるのが「吉田茂」の国葬である。
1)吉田茂と安倍晋三の人物、功績、態度の比較。
2)当時の国葬の決定方法。
佐藤栄作首相は、各野党に対して、事前に「国葬」の打診を行い、内諾を得ている。
そして、最も大切なことは、、、
3)送る人の気持ち、熱量。
佐藤栄作は、心底、吉田茂を敬愛し、
「国葬」というかたちで、その恩と功績に報いることをしたかった。
(と、伺い知ることができる)
だから、超法規的措置として、野党に頭を下げ、国葬の実現に奔走した。
4)死去から国葬まで10日間。
熱が冷めないうち、たくさんに知られる前の短期勝負、これも良かった。
・・・・・
安倍首相、殺害当時の世の中の空気感。
自民党内での位置づけ、政局。
これを機に、弔問外交がどうのこうの。。
そうゆう「今の自分の気持ち・常識」
さらに、その「気持ち」も、打算・役割で、決断するから、
今のこうゆう事態になる。
歴史を振り返り、勉強すれば、
岸田総理は、自分がやるべきか、やるべきでないか。判断ができたはずである。
今、国民に説明をしても「打算と役割」だから、響かない。
総理の国葬の歴史を勉強すれば、
まず、言い出しっぺ=岸田総理の故人への熱い気持ちが、ベースになきゃ話にならない。
それが、野党への協力依頼。という行動にあらわれる。
そんなことが、見えてくる。
そもそも、
誰かのお葬式って、そうゆう気持ちが根本かつ始源である。
始源は、送る人と送られる人。
1対1の思い、ハートである。
アタマだけでなく「すとん」と心まで全部落ちると、全身からにじみ出るものがある。
それが、人を動かす根本になる。
コンサルタントとして「葬儀」に関わる人間として、私的見解も、少し入っている。
「費用が13億円??
カネが問題なら、俺が出す。一生かけて払う。それでも、彼を国葬で送りたいんだ!」
今から、国葬世論を挽回させたいなら、このくらいの覚悟がなきゃ、無理だろう。
繰り返します。
歴史を知らない人は「今の自分の気持ちと常識」で、行動を決定する。
そして、間違う。
経営でも、周囲の変化によって、
こうゆう場面に遭遇することが、山ほどある。
その場の空気、自分の気持ち・今の小さな常識に流されてはいけない。
時間(=歴史、未来)
空間(=他社、他業界、他国、他人)
これを勉強し、意思決定すれば、間違うことは、最小限で済む。
※
以下、おまけ。中西探偵のゲス推理。。。
岸田総理に国葬を、強く進言したのは、麻生太郎。と言われている。
麻生さんは、吉田茂の孫でもある(吉田の三女が、麻生太郎の母)。
本人は吉田茂とも交流があった。
・・・
吉田じいさんは「国葬」だった。俺も、目の黒いうちに、ひとつ噛むことができるぞ。
あのときは、凄かったからな
・・・
偉大な祖父への憧れ。
政府内で、最も国葬を身近に感じている人間が、麻生さんであることは間違いない。
身内が国葬をしている=その分、実現も身近に思える。
ネットニュースによれば、「理屈じゃねーんだよ!」と、岸田総理を恫喝したという。
これは、ある種、正しい。かもしれない。
「彼を国葬なんて、理屈では通らない。それを通すだけの気概を持って、事にあたるべし」
という、意味合いでの発言ならば。。
「聞く総理」は、それを、その場で聞いて、
歴史を紐解くことをせず、
麻生太郎の言葉の背景、真意も調べず、浅知恵で決めたのではないか?
2022年9月11日 21:41
何度か、このブログ内でもお伝えしている通り、
「歴史」は繰り返す。
「自分は、今、歴史の中に生きている」と、
小さいころから「歴史」の人物に憧れをいだき、学び、
自分を「重ね合わせ」生きてきました。
単に「読み物」「情報」として、歴史を好きであっただけでなく、
幼稚ながらも「重ね合わせ」してきたことが、
人生において、役に立ってきた。と、感じています。
たとえば、
こんな武将がいいなあ。この武将はタイプが違うから真似できないな。
こんな武将にならなれそう。
そして、
こんな武将には絶対なりたくないぞ!なんて、思っていました。
幼稚ながらにも、理解できたことがある。
主君を裏切ること。
卑怯であり、かつ弱いこと。
金・女・地位・酒に対して、強欲すぎること。
逃げること。
虎の威を借るキツネ。
趣味をメインに生きること(けまり、闘犬、闘鶏等)。ボンクラ、バカ。
こうゆうことは、後世まで、悪く言われ続ける。
あと、死に様・最期が、みっともないのも、永遠に残る。
吉良上野介、明智光秀、畠山義継、大野治長、平宗盛、維盛、
小早川秀秋、陶晴賢、龍造寺隆信、藤原泰衡、北条高塒。。
ゼッタイ、自分は、そうはなりたくない。
で、この逆の立派な人物は、後世まで、ちゃんと良い評判が、残る。
だから、それを意識して生きてきました。
歴史を知らない人は「今の自分の気持ちと常識」で、行動を決定する。で、間違う。
武功を上げる=敵の首級を上げる。城を落とす。は、
現在、資本主義社会においては、売上を上げること。である。
卓越した技術・機能を、欲しがられ、
それが、売上になること。
それが「武功を上げる」武将と、同義である。
現在、戦いで殺されることは、稀有だが、経済的な「死」はある。
武芸を磨くのと同様、自分の技術・機能を磨き続けなければ、生き残ることができない。
学生においては、勉学と体力の成績である。
できないなら、武将ですらない。雑兵・足軽である。
雑兵・足軽は、イヤだ!だから、勉強もスポーツもやる!と思っていた。
歴史だけではない。
生物番組で、
鮭やアユの遡上を見ても、
ボクが鮭だとしたら・・・・
逆流にさからって、進むことができる鮭・アユになれるのかな?
って、考えていた。
メスを巡って争うトドを見ると、
ボクは、争いに勝てるトドになれるかな?結婚できるのかな?
って、考えていました。
トドは、トド。ボク、トドじゃないもん。
鮭は、鮭。ボク、鮭じゃないもん。
武将は、武将。ボク、武将じゃないもん。戦わなくていいもん。
そうやって「分けなかったこと」
自分に「重ねあわせてきたこと」が、良かったんだなー。と、思います。
2022年9月10日 21:31
この山のかたちを見て、
どの城跡か、わかりますか?
正解の人は、相当のマニアです。
前述の家康と関ヶ原で戦い、敗れた武将・石田三成の居城・佐和山城の跡です。
「三成に、過ぎたるものが二つあり。島の左近と、佐和山の城」と称された名城の跡。
「過ぎたるもの」=落としにくい、難攻不落の凄いお城なのかな?と、思っていましたが、
現地へ足を運ぶと、確かに、良い城ではあるが、
攻め落とすことはできそうなお城である(・・・歴史・戦術マニアの真骨頂・笑)。
現地をみて、わかったことがある。
「過ぎたるもの」と評されたのは、おそらく「交通の要所」であるがゆえである。
東日本から、京都に入るためには、
必ず、この地を通らなければ入れない。
日本の西と東を往来するにあたり、絶対に通ならければならない場所である。
山と湖で、キュッと狭まっている地なのです。
だから、物資も、ヒトも、情報も、必ずここを経由され、集めることができる。
「地政学」上の重要位置にあり、石高(=動員可能兵力)以上の経済的メリットを享受できる。
※地政学:地理的な環境が、組織に与える、政治・軍事・経済の影響を研究する学問。
鈴鹿山脈を回避して抜け、
湖のそばを通るとき、目の前に「佐和山」が構える。
ここさえ押さえれば、日本の全てを握ることができる。
「大河にかかる1本しかない橋」のような場所なのです。
三成→豊臣家、滅亡後、
家康は、佐和山城の目と鼻の先に「彦根城」を作り、
徳川四天王・井伊直政に預け、
この地を明治維新まで井伊家に支配を任せた。そのことにも、納得ができる。
天下分け目の関ヶ原は、ここから、目と鼻の先。
歴代最強の天皇・天武天皇(大海人皇子)と、
大友皇子が戦った壬申の乱の戦いも、この地。
現代経営においても、
世界と日本全体を見渡す、地政学。
地域エリアを見渡す、地政学。
ミクロの出店地域で見る、地政学。
どの場所が「大河にかかる1本の橋」となりえるのか?
自社の何が、お客様にとって「大河にかかる1本の橋」となりえるのか?
そうゆう着眼点の大切さを、歴史は教えてくれます。
2022年9月4日 22:12
一揆が起こった。
さあ、あなたは、どうする??・笑
この広告画面には、3択。
「武力で制圧する」「平和的に交渉する」「誠心誠意、謝罪する」
(・・・あの社長なら、これだな。あの幹部は、こうするな・・)などと、思いを馳せながら、広告を見る。
ちなみに、徳川家康という稀代の武将の生涯を通してのやり方は、以下の通りである。
(と、私は、見ている)
まずは、戦う。逃げない。※全面でなくとも良い。局地でも良い。
そこで、勝つか、引き分けに持ち込む。
で、和睦して、許す。
兵力・商業力は、温存しなければ、国力にならない。「許すこと」は、勢力拡大になる。
和睦後に、ゆっくり相手の力を削いでゆく。
削いだところで、
無茶な無理難題を要求して、相手の急所を潰し、完全に従わせる。
建前を作る。
そのあと、欲しいものを取りに行く。
名分を作る。解釈の違い、と言って、やりたいことをやる。
最終的な利益に意味がある。
最終的に、自分の欲しいものは何か?
それを明確にしておいて、何年単位で、とりに行く。
許したように見せて、実は、許していない。
理や筋よりも、実力・実利である。
企業経営、国家経営の手本として、
「家康」は、とことん、勉強しておいたほうが良い。
私も、若いころは、単なるイメージと関西育ちで、
青臭い「家康ギライ」であったが、
コンサルタントを職業とし、真剣に経営・マーケティングに取り組むと、
その偉大さが、身に染みてわかるようになりました。
2022年9月3日 20:15
「最近、歴史ネタないですね。やらないんですか?」
ブログ読者さんから、リクエストがありまして、、
「あーるよー。」
何本か、メモを書き溜めておいたものを、放出します・笑
こちら、新装なりました、福山城。主要駅からの近さ、全国でもトップクラス!
以前は、なんだか安っぽい、万人受けの豪華さのイメージでしたが、
一気に本格派のイメージへ。周りの環境も、あわせて改装。
これは、本当に良くなりましたね!
↑こちら、ビフォーの福山城
初代城主は、水野勝成。
家康の母方のいとこ。「暴れん坊」のいとこです。
「倫魁不羈(りんかいふき)」
(余りに凄すぎて、誰にも縛りつけることはできない)と、評される武将。
20歳で父親と喧嘩(父の部下が自分を讒言したと怒り、その部下を切り殺す)して、
水野家を勘当、出奔。
以降、主君を何人も変えて、全国を放浪。
一般人として生きていた時期もあったという。
父・水野忠重(徳川家康→織田信長→信雄)→仙石秀久→豊臣秀吉→佐々成政→黒田孝高→小西行長→加藤清正→立花宗茂→三村親成→徳川家康→秀忠→家光
名だたる豊臣方の名将(追われているから、主に九州配属の武将)に仕えています。
そして
35歳、関ヶ原前に、徳川家康のもとに。
以降、徳川家一筋。
10代のころから数々の戦に、全て参加している。武功を残す。
戦術・戦闘の腕は、相当のもの。
水野君、キミ、役職あげよう、何がいい?と聞かれて、
明智光秀の代名詞とも言える「日向守」を、嬉々として受けるのだから、
その豪胆さ・奔放さ・とらわれることのない性格が、よくわかる。
そして、その「日向守」は、
いつしか「鬼・日向」という異名で呼ばれるようになる。
グレードアップしたオリジナルのものにしてしまうのだから、これまた、凄い。
治政も良く、領民にも慕われ、治水、街づくり、産業の振興にも能力を発揮した。
民と共に暮らした経験、名将たちに仕官した経験が活きている。
そうゆう殿様だったのであろう。
55歳で、福山への配属は、毛利氏をはじめ、西国の大名への備えとして、
重要視されていたことがわかる。
家康以外に、たくさん仕えているし、
親戚なので、
「徳川四天王」には、名を連ねていないのだが・・・
この腕っぷし自慢の、年下の自由人いとこ。
家康は、どう思っていたのだろうか?
歴史の教科書にも出てくることのない、ドラマにも登場することのない武将だけど、
案外、頼りにしていたのかもしれない。
親族に凄いのがいると、心強いですもんね。
勝成は、どう思っていたのだろうか?
最終的に、家康の配下として活躍するのだから、やはり、家康の器の大きさがわかる。
※
これだけ主人(=会社)を変えても、最終的に大名となれたのは、
1)天下の実力者のいとこであったこと
2)戦で強い、首級をあげる(=現代社会においては、圧倒的に売上を上げる)ことができること。
だから、この2条件がそろっていない、
現代に生きている人は、
真似しないほうがいいですね。