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たしなみ③は、マニア向け。試合前の練習から10倍楽しむ

甲子園のナイトゲームの試合開始は18時。

が、時間に余裕があるときには、
16時開門と同時に入場してみてください。
ちなみに、私は16時から行けるときでなければ、行かないくらいである。

内野席を予約すると、試合前の練習を見学することができます。
ただし、ビジターチーム(阪神以外の対戦チーム)の練習である。

最前列の特等席も、
席の主が来るまでなら、自由に座れる。

最前列には、
対戦チームの熱心なファンが座っていて、練習を観ているので、
わたし以上の「その道のプロ」に、話しかけて、教えてもらう。
「今、バット振ってるのは、誰ですか?」
「コーチは、誰ですか?」
「あの練習、何の意味があるんですか?」
「最近の調子は、どうなんですか??」

巨人の中山、岸田、増田・・・レギュラーではない選手たちも
バシバシ100%に近い確率で、思った場所に、すごい打球を飛ばす。
これだけ上手なのに、レギュラーじゃないんだ。。
(でも、小林は、練習でも、打ててなかったなあー・笑)


中日、立浪監督が、期待の村松開人を個人レッスン。
「どれ、貸してみろ、見とけ。こうして打つんだ!」とばかりに、
バッシバシ、打っていた。
自分が上手いからこそ、、、ですよね・・・。

練習で観ていた選手が、
当日、途中交代で出場して、活躍したり、
その後、別の試合で活躍したニュースを知ると、
「あー、あの時の練習、ひと味、違ってたもんな!」
なんて、10倍、楽しめるのである。


最終戦には、試合前、こうして「先輩」に1年間の挨拶にくる。
最下位の中日の立浪監督に、首位の阪神の今岡コーチと筒井コーチ。
ちゃんと帽子をとって。
奥の今岡にとって、立浪はPL学園の先輩。
※この腰から上の角度よ・・・今岡は、終始この体勢。これが上下関係の厳しさが有名なPL式なのか・笑?
筒井にとって、立浪は中日時代の先輩。

写真にはないけど、中日の和田コーチに、阪神の中野と捕手の長坂が挨拶に行ってた。
東北福祉大学の先輩にあたる。
みんな、連れだって行くみたいですね・笑
プロの世界を生きてゆくには、こうゆう出身高校、大学、チームのタテのラインって、
大事なんだろうな。って、わかります。

  
外野席にも、楽しみはある。

小太りなオッサンが、センター付近に歩いてきた。
どのコーチだ?誰だ??と思ったら、「近本」である。そう、あの1番センター近本。
TVではスリムに見えるけど、
プロ野球選手は、近くで見たら、ムッチムチ=筋肉の塊である。
特に下半身はすごい。感動である。

「ちかもとー」って呼ぶと、こっちを見てくれる。
「今日、打てそう??」って、大声で聞くと、
両手を頭の上にして、「マル」ってして、ニコッとしてくれる。

その日、ヒット1本、打ってくれた!
それだけで、もう、ゲキ歓び!!
(約束のヒットだー)
試合に勝っても負けても、自分次第で、10倍、楽しくなる。

これは、たしなみ。というより、
完全ミーハーですね、楽しいですよ、甲子園。


ユダヤとイスラム。古来、戦争は「会戦」であったのに・・・

古戦場は、決まって、寂しい場所にある。

戦いがあったから、人が住まなくなったのではない。
そもそも、人が住んでいない、戦術上の要地で、軍隊同士「戦い」は行われていた。

古今東西、長い歴史の中、「戦い」は、基本、このスタイルだった。

住民の恨みを買い、生活インフラを壊したら、
後の統治が難しくなる。復旧に時間とお金がかかる。そうゆう側面もあっただろう。
市民とインフラ=生産力を無事に残して、とったほうが、価値が高い勝利。
だから、軍隊同士が、軍事・戦術拠点を巡り「会戦」する。

いつから一般住民が住んでいる場所で、
住民を巻き込み、住民を殺戮するスタイルの戦争が「当たり前」になったのか?

戦史を調べてみると、、
第一次世界大戦から、人類は明らかに狂ってきた。
 (飛び道具的な兵器が増え、自分が殺す人の顔が見えなくなった)
白人によるインディアン戦争も起源かな?
 (異民族に対して、何でもアリになる)
ヒトラーによるロンドン空襲。
もちろん、日本への空襲、広島への原爆。。

そして、現在、
イスラエルとパレスチナ。ユダヤ民族とアラブ民族の戦い。
ロシアとウクライナも。。市民を巻き込む。

一般住民の暮らしの場を、戦場とする。

 
『ケンカするなら、オモテでやってこい!』
幼少期・学生時代、親や先生から、言われていたフレーズ。
家の中、校内の「生活インフラ」を守るため &一度、冷静にさせるため、である。

本物の戦争も、昔はそうやっていたのである。
暮らしの場から離れた場所を「いくさば」とした。
だから、古戦場は寂しい場所にある。

  
今や、現地で生活をしている生身の人間が、苦しむ姿を見ることなく、
自分は空調の効いた安全な部屋から、ボタン操作だけで、人を殺すことができる時代。

人類は、技術的・科学的進歩をとげてきた。
が、精神的・情理的・道徳的には、退化・劣化している部分も多い。
共に進歩しなければならない。


名こそ惜しけれ。鎌倉権五郎/坂東武者から始まる日本人のモラル

もうひとつ、歴史を書き留めておく。
これは、「鎌倉権五郎」ゆかりの建物。

源義家軍の16歳の若武者であった。
戦いの中、矢が目に刺さる。刺さったまま戦い続け、逆に敵を討ち取る。
苦しみながら自陣に帰ったところ、
従兄が、その矢を抜いてやるために、権五郎の顔に足をかけた。
すると、権五郎は怒り、従兄に斬りかかった。

その理由は、こうである。
「武士だから、矢が刺さり死ぬのは本望である。
しかし、生きたまま土足で顔を踏まれるのは恥辱である。お前は敵だ!」
従兄は、謝り丁重に矢を抜いた。

今の常識で考えるならば、笑ってしまうような事件である。
これをやれば、単なる、ややこしい男である。
今、怒るとしたら・・・(痛い!!お前の抜き方、下手すぎるやろ、痛いねん!!)
「肉体的な痛み」に対して、怒るかもしれない。

鎌倉権五郎のエピソードは、
「名こそ惜しけれ」という鎌倉武士のモラルと心意気を端的に示している。
以来、日本人の心根に流れる精神の源である。

「名」というのは、自分の名前。
自分の名前を傷つけるような「恥ずかしいことはするな」ということ。

司馬遼太郎さんは、この「名こそ惜しけれ」の精神を
「今も、一部の清々しい日本人の中にある」と表現した。

何とかその「一部」に、引っかかっていたいな。。。

もちろん、私は、公明正大・清廉潔白な人間ではない。
人に言えないようなことも、たくさんある・笑
ただ、以前のブログでもお伝えした
「He is not a good man ,but a fine man」
=彼は「良い男」ではない、しかし「立派な男(真の男)」だ。的には、生きてゆきたい。

鎌倉市街地には、権五郎を祀る「御霊神社」があり、
歌舞伎の演目としても、演じられている。


「教えて!」って、聞いて「変態的」に生きるススメ

前述の北海道でのオヤジ同士の出会いもそうだけど、
見知らぬ相手にでも、
何でも「聞くこと」は、人生を変える。豊かになる。と確信している。

「教えてください!」
「僕、こう思うんですけど・・・」
って聞けば、どんな人でも、だいたいのことは、教えてくれる。

「教えてください」を
やるか、
やらないか。
それだけで、人生が豊かなものになるかどうかが、決まる。

・・・・・
20代後半ごろから、
イマドキ女子に「キモっ!!」って言われると、
「どのへんがキモい?オッチャンに教えて~」って、聞けるようになってきた。
それが楽しくなる。=つまり、生物学用語でもある正真正銘の「変態」である。
自分に対する否定的な言葉に対して、
人並みにショックを受けたり、反発したりしていたのが「変わる」のである。

ちなみに、多くの場合、
「全部キモイ。で、そうゆうこと聞いてくるところが、一番キモイ」
と、返ってきます。笑
・・・・・

アレ(優勝)の瞬間は、
飛行機の遅延のおかげで、観れました。

「教えてください!」と、生きている私ですが、
ひとつ心残りがある。

今回、北海道で、できなかったこと。
阪神好き・オタク風のおじさんに、「職業、家族」を尋ねることである。
何の仕事してるんだろう??
実は、大富豪かもしれないな。。
「北海道へは、単身赴任ですか?」の一言から、展開できたのに。
(きっとオタクだろう、それを聞いたら、失礼かも・・)のバイアスがかかってしまい、邪魔をした。

まだまだ修行中の身であります。


偏差値と口コミ評価点数も、比例する。5つの仮説

高校の在校生・卒業生の口コミ情報サイトを調べてみると、
大きな法則が発見できます。

偏差値の高い高校は、口コミ評価の点数が高く、
偏差値の低い高校は、口コミ評価の点数が低い。

偏差値と口コミ評価点数は、比例している。

なぜ、そうなるのか?
5つの仮説が、思いつく。

1<自分のせい/他人のせい>説
偏差値の高い高校の生徒は、努力して、道を拓いてきた。点数は自分次第という思考ができている。
偏差値の低い高校の生徒は、他人(校則、先生、施設、校風、同僚)のせいにして、低い点数をつける。

2<苦労して手に入れたものは価値が高い>説
人間、苦労して手に入れたものを、悪いものと思いたくない。
だから、苦労して入学した高校には、現実よりも高い評価をつける。
深く考えず、入れるところにすんなり入学した人は、フラットな立場で評価する。

3<校則がゆるい/厳しい>説
偏差値の高い生徒は、自主的に規律を守れる。責任のある自由=リバティがわかる。
だから校則が最低限で良い。反発が少ない。
偏差値の低い生徒は、際限なく、無秩序で勝手。責任のない自由=フリー。
だから締める。すると、反発する。

4<長期的打算/短期的感情>説
偏差値の高い生徒は、自校の口コミ点数は、
将来、自分の経歴に影響を及ぼすことを計算して、高い点数をつけておく。
偏差値の低い生徒は、そこまで考えが及ばない。
目先の好き・嫌いで生きている。一時の感情で点数をつける。タトゥーを入れることに似ている

5<今の自分への評価、深層で自己投影>説
偏差値の低い生徒は「今は、1~2点だけど、これから、4~5点になる」という可能性
「=自分の伸びしろ」を残した点数を入れる。自分でも気づかないうちに、自分を投影している。
偏差値の高い学校の生徒の高評価も、「学校」というよりも、今の自分自身への高い点数である。

さて、どれが、当たっているでしょうか?
どれも、正解な気もします。
この5つの説を統合する根本的な答えとは、何か?
皆さんは、どの説をとりますか?
自分が高校生だったとき、自分の高校に何点をつけますか?

 
その他、さっと調べてみてわかったエトセトラ所感・・・
1)この傾向は、都市部において顕著。地方においては、ゆるやかである。
地方出身者のほうが、社会に出てから活躍できる素地、所以かもしれません。

2)「偏差値が高いのに、口コミ評価が低い」という高校も存在する。
特進コース、体育コースを設けている私立の高校に多い。
偏差値(=学校経営)維持のための詰め込み教育・階級・分断の弊害か?
大人の経済的エゴ。を、感じとるのか?

3)コンサルタント的視点からすれば、
「偏差値が低くても、口コミ評価が高い」というカテゴリーには、
新規マーケットがありそう。そうゆう学校を作れば、市場を切り崩せる。儲かる。
マッピングして、このポジションに近いモデルになりそうな学校の取り組みを調べれば、
答えは出てくる。

 
勉強しない=楽しい!満足。
というわけには行かないのが、世の中のようです。

ちゃんと体系的に勉強する人のほうが、生きている満足度が高い。





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