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大河にかかる1本の橋。どう作る?どう見極める?

この山のかたちを見て、
どの城跡か、わかりますか?

正解の人は、相当のマニアです。

前述の家康と関ヶ原で戦い、敗れた武将・石田三成の居城・佐和山城の跡です。
「三成に、過ぎたるものが二つあり。島の左近と、佐和山の城」と称された名城の跡。

「過ぎたるもの」=落としにくい、難攻不落の凄いお城なのかな?と、思っていましたが、
現地へ足を運ぶと、確かに、良い城ではあるが、
攻め落とすことはできそうなお城である(・・・歴史・戦術マニアの真骨頂・笑)。

現地をみて、わかったことがある。
「過ぎたるもの」と評されたのは、おそらく「交通の要所」であるがゆえである。

東日本から、京都に入るためには、
必ず、この地を通らなければ入れない。
日本の西と東を往来するにあたり、絶対に通ならければならない場所である。
山と湖で、キュッと狭まっている地なのです。
だから、物資も、ヒトも、情報も、必ずここを経由され、集めることができる。
「地政学」上の重要位置にあり、石高(=動員可能兵力)以上の経済的メリットを享受できる。
※地政学:地理的な環境が、組織に与える、政治・軍事・経済の影響を研究する学問。

鈴鹿山脈を回避して抜け、
湖のそばを通るとき、目の前に「佐和山」が構える。
ここさえ押さえれば、日本の全てを握ることができる。

「大河にかかる1本しかない橋」のような場所なのです。

三成→豊臣家、滅亡後、
家康は、佐和山城の目と鼻の先に「彦根城」を作り、
徳川四天王・井伊直政に預け、
この地を明治維新まで井伊家に支配を任せた。そのことにも、納得ができる。

天下分け目の関ヶ原は、ここから、目と鼻の先。
歴代最強の天皇・天武天皇(大海人皇子)と、
大友皇子が戦った壬申の乱の戦いも、この地。

現代経営においても、
世界と日本全体を見渡す、地政学。
地域エリアを見渡す、地政学。
ミクロの出店地域で見る、地政学。

どの場所が「大河にかかる1本の橋」となりえるのか?
自社の何が、お客様にとって「大河にかかる1本の橋」となりえるのか?

そうゆう着眼点の大切さを、歴史は教えてくれます。





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