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「死」を感じることで「生」の素晴らしさを知る


阪急・中津駅です。

この狭いホーム。。
電車がすれ違うたび、身の危険を感じる。

俺、生きてるなあ・・・と実感する。

 
「冒険家」の気持ちになれる駅です。


能力を高める目的とは?

「勉強をすればするほど、
経験を積めば積むほど、人間性が悪くなってゆく、自分がいる。
知識や成功と、人間性って、比例しにくいものですよね。」

ふと、こんなことを漏らした
ご支援先の幹部さんがいる。

これには、まったく、同感です。

勉学の知識や、経営の経験、技術が高まることが
品性・性格が良くなってゆくことと、必ずしも一致しない。

特に、経営者は、厳しい世界で生きている。
ライバル相手と戦うには、勝てる作戦を考えなくてはいけない。

スタッフの能力を引き出すと同時に、
不正をする卑劣なスタッフがいると、
それを上回る「ズルさ」の知識がなければ、防止策は出てこない。
知っていても、知らないふりで、
ニコニコながら、行使しないようにするのも、性格としては「悪い」部類になるだろう。

お客様の要望は、
ライフサイクルの進化とともに、厳しくなってゆき、
それにも対応しなければならない。

現実の世界で生き残るために、
学ぶこと、知ることは、「良いこと」ばかりではない。
どちらかと言えば「良くないこと」に、巡り合うことのほうが多い。

性悪説的な人間の本性に、
数多く遭遇すれば、
それに対応する術を学習し、身につけようとするから、
当然、冒頭のような感想を持つに至る。

この幹部さんは、それのことに気づいているから、素晴らしい!
普通の人は、気づかない。

そこで、
これまでのブログの中江藤樹の言葉を引用したい。

「それ学問は心の汚れを清め、身の行ないを良くするを以て本実とす」

「にせの学問は、博学のほまれを専らとし、
まされる人をねたみ、おのれが名をたかくせんとのみ、
高満の心をまなことし、孝行にも忠節にも心がけず、
只ひたすら記誦詞章の芸ばかりをつとむる故に、
おほくするほど心だて行儀あしくなれり」

なぜ、勉強するのか?
それは、「身の行いを良くするため」である。

とある宿泊施設の書棚。。読んだことのある本がたくさん・・・重なってる!
シンパシーを感じます。


北浜聖人

そういえば・・・
当社にも、
困っている人を助け、私に「道」を教えてくれる
聖人・スタッフがいる。

そのスタッフは、会社の備品を買うために、
歩いて3分ほどのドラッグストアに買い物に行ってくれた。

事務所に帰ってきて、
お釣りを数円分、多くもらっていることに気づいた。

彼女は、
「数円でも、レジがあわないとスタッフさんが困るだろうから」と言って
相手が、間違って渡したお釣りを、わざわざ、また歩いて、返しに行った。

当然、相手にとても喜ばれたそうだ。

ちなみに、私は、釣銭が多いことを聞かされたとき、
「ええんちゃう?もらっておけば??」と、彼女に言った。
(お恥ずかしい!)

私の根底には、
「相手が間違ったものだ。こちらが、わざわざ返しに行く必要があるか?」
「自分が動いた時間の人件費を考えれば、こちらのほうが高くつくじゃないか?」
経済性のみを優先した、ダメ人間の発言。。
彼女の言動に、ハッ!と気づかされたものです。


北浜聖人。
美味しいコーヒーと、スイーツ。
爽やかな景色に囲まれて、事務所にいます。


「道」を教えなければ、繁栄はない

近江聖人・中江藤樹は、日本における陽明学の先駆者。
陽明学は「知行合一」を唱える学派。
知っていることを、実行してこそ、学問の価値がある。という思想です。

有名なエピソードを、ひとつ。

ある武士が、藩から預かっていた大金を、旅の途中でなくしてしまった。
慌てて、心あたりを探したが、見つからない。
「藩のお金を紛失したとあっては、自分の命だけでは済まされない・・・」と、
途方に暮れていると、その宿を、馬子が訪ねてきた。
馬の鞍についたままになっていた財布に気づき、
「持ち主は、今頃、困っているだろう」と、わざわざ、道を戻って、届けにきたという。
武士の側が、感謝の気持ちに・・・と、礼金を渡そうとするが、馬子は受け取らない。
「あなたは、一体、どうゆう人ですか?」と聞けば、
「ただの馬子です。家の近所に中江藤樹という先生がいて、そこで教えてもらっていることを、実践しただけです」
「人のものを盗ってはいけません。傷つけてはいけません。困っている人がいれば助けましょう。
ということを思い出しました」と。

 
「落とし物」が、自分のもとに返ってくる確率は、
日本は外国に比べて、圧倒的に高い。
外国から来た人や、海外暮らしが長い人から、こんな感想を良く聞かされる。

正確なデータは、調べていないので、よくわかりませんが、
そうゆう傾向は、あるのかもしれない。

売上も利益も仕事も、人が行うこと。
人が、こうゆう「古くからある定石。当たり前で、普通のこと」=「人の道」を、
再認識できるといいな。

中江藤樹、曰く
「家をおこすも子孫なり、家をやぶるも子孫なり。
子孫に道をおしへずして、子孫の繁昌をもとむるは、足なくて行くことを願うに等し」

家は、会社。
子孫は、後継者やスタッフさん。。と置き換ることができますね。

 
「道」を教える。。
そんなこと、教えなきゃならないのかーー。教えなきゃならないんだろうな。。

このようになりたいものです。


近江聖人・中江藤樹

江戸時代の初期。
少年は、家督を継ぐため、遠くにいる祖父に預けられ、教育された。
母は、一人で故郷・湖北(滋賀県北部)に残る。
母は、少年をこう言って送り出す。
「学問を成就させるまで、家に帰ってくるな。立派な人間になるまで、母はお前に会いません。」

実家を離れて数年が経った、ある冬。
少年は、豪雪地帯で一人暮らし、
いつもシモヤケ・アカギレに苦しんでいる母親を思いやり、
希少な薬を手に入れる。
そして、それを届けるために、遠路、実家へ。

しかし、母親は、家の扉を開けなかった。

母「約束を忘れたの?帰ってきてはなりません」
子「学問を投げ出したわけではありません」
母「同じことです、顔を見れば、甘えた心が出てきます」
子「せめて、薬だけでも外に置いてゆきます」
母「いりません、それを持って、帰りなさい」

このようなやりとりが、雪国の情景とシーンの描写によって、
感動を生み出す、涙・涙・涙の話。

道徳の授業だったか、
国語の教科書に出てきたか、、
何かでぼんやり知ってた、このお話。

近江聖人と呼ばれた、中江藤樹と、その母の話でした。
出店調査で訪れた地で、思い出させてもらいました。

 
目先の「かわいい」よりも、
子供の将来を思えばこそ、「厳しい愛」を。

日本の「人育て」の原風景が、こんなところにある。





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