不器用な美学
どんなものを「醜い」と感じ、
どんなものを「美しい」と感じ、
「そうありたい」とか、
「そうありたくない」という、判断するのか?
「美学」とは、
人それぞれの個人差が大きすぎて、
コンサルタントとしては「ルール化」も「論理的組み立て」もできない、
本当にやっかいな学問です。
もしかしたら、「美」とは「学問」とは呼べないのかもしれない。
自分のなかのベースにある、
たぶん、間違っている・・・
いや「間違ってる」というより、
損しているであろう「美意識」「美学」。
それを象徴しているのが、
映像のなかの「高倉健」というイメージです。
個人として、高倉健さんが、どんな方なのか、深くは知りません。
ただ、ブラウン管越しに見る、その「イメージ」が、
自分のDNAに備わっていた「美学」にマッチしたのか、
そこから形成されはじめたのか、未だに記憶に残っています。
20代前半の頃、
夜中に、ぼーっと見ていた高倉健主演の「映画」。
ある一定期間に、連続でシリーズものを放映していました。
ストーリーは、良く覚えていませんが、
こんなシーンが、若かりし「美意識」に作用したのです。
主役のヤクザ者・高倉健はじめ仲間が
敵の理不尽な仕打ちに耐える。
健さんは、ついに意を決し、
誰にも何も言わず、たった一人で敵の組に殴り込むことにする。
懐にドスを忍ばせ、
健さんが一人夜道を歩いていると、
曲がり角のところで、
傘を持った弟分(池部良)が、待っている。
兄貴分の覚悟を、察して、行動を共にする。
何も言わず、さっと傘をさし出し、
二人で雪の夜道を無言で、数倍の敵が待つ敵地へ乗り込む・・・。
今、調べてみると、
どうやら「昭和残狭伝」シリーズだったみたいです。
このシーンを「カッコイイ!」→「男、かくありたい」と、思ってしまう。
「言葉より語るものがある」
「信じた仲間のためには、命がけで」
「言葉にしなきゃ、伝わりません!」そう言われても、
「ペラペラしゃべらなくても、わかるだろ?」という美意識を、未だに持っている。
まあ、考えてみれば・・・
近くに「高倉健」じゃない、
不完全な「高倉健」がいたら、、、迷惑ですよねー(笑)
ご冥福をお祈りします。