「練度の高い正直さ」と、自分の劣等感
「坂の上の雲」の作者、司馬遼太郎さんは、
この白髪のおじいさまである。
確か、昨年か一昨年、生誕100年でした。
作品として「昭和」を書くことがなかった司馬さん。
(昭和以降の日本には、自分が書く題材がない。と感じておられたようです)
その「昭和」を語るインタビューの再放送より。
「練度の高い正直さ」について
話しておられたことが、印象に残りました。
言語は正直でないとダメである。
「練度の高い正直さ」は、「バカ正直」とは異なる。
思ったことをすぐ文章や口にする「バカ正直」は、下品で悪徳である。
相手を不快にさせる。
練度=つまり、訓練して身につける正直さである。
それがユーモアにつながる。相手に安堵を与えて、水平な関係性を築く。
魅力的な言葉になる。
たとえば、、
歌舞伎の海外公演に、
随行するえらい人 の開演前の挨拶。。
練度の高い正直さとは、このようなものではないか?
「実は、私は、日本の歌舞伎に、これまで無関心で今まで生きてきてしまいました。
その間に、私の想像をはるかに超え、歌舞伎は世界に出ていってしまいました。
今日は、皆さんと同じように、じっくり観たいと思います。
後ろのほうの席にいます。公演が終わったあと、
どこが面白かったのか、こっそり教えてくださいませ」
こうゆう「正直さ」が必要なのである。
ところが、一般的には、
付け焼刃的な知識(=知ったかぶりのごまかし)で、
歌舞伎の歴史を紹介する。面白くもなんともない。
練度の高い正直さとは、
自分の劣等感を隠さずに、さらけ出すことでもある。
言葉には、そうゆう勇気が必要なのである。